浦沢直樹『MONSTER』──あなたが「善人」でいられるのは、ただの偶然にすぎない
一冊の漫画が、あなたの倫理観を静かに解体する
本棚の前に立って、背表紙を眺めている。数百冊、あるいは数千冊の物語がそこに並んでいる。その中で、読み終えたあとに世界の見え方が変わってしまう本というのは、そう多くはない。ましてや、漫画という形式で、あなたの「善悪」という概念そのものを根底から揺さぶり、読み終えた深夜に天井を見つめながら「自分は本当に善人なのか」という問いから逃れられなくする作品など、ほとんど存在しないと言っていい。
浦沢直樹『MONSTER』は、その「ほとんど存在しない」側の作品である。
全十八巻。一千ページを超えてなお足りない、膨大な物語。しかしこの作品の「長さ」は、決して冗長さから来るものではない。むしろ逆だ。この物語が十八巻を要するのは、浦沢直樹という作家が、人間の心の奥底に潜む闇を、一切の省略なく、一切の妥協なく、徹底的に描き切ろうとしたからである。一コマたりとも無駄がない。しかし同時に、一コマたりとも急いでいない。この矛盾した二つの性質が同居していることこそ、『MONSTER』という作品の、ほぼ奇跡的な特質である。
「舞台」が、すでに物語である
まず、この作品の舞台設定について語らねばならない。
一九八六年、西ドイツ・デュッセルドルフ。冷戦の影がまだ色濃く残るヨーロッパ。ベルリンの壁がまだ屹立し、ドイツがまだ二つに引き裂かれていた時代。そして物語は、壁が崩壊し、ドイツが再統一され、東欧が激動の渦に呑まれていく九〇年代へと雪崩れ込んでいく。
この時代設定は、単なる「背景」ではない。これは物語の骨格そのものである。
冷戦とは何だったのか。イデオロギーが人間を二分し、「こちら側」と「あちら側」を定め、壁の向こうの人間を「敵」と呼ぶことを正当化した時代。国家が個人を番号で管理し、秘密警察が隣人の密告を奨励し、子どもたちが実験台にされた時代。その時代の「傷」が、壁が崩れたあとも消えることなく、人々の心の奥に膿のように溜まり続けている。
浦沢直樹は、この歴史的傷跡を、驚くほど丹念に、しかし決して説教的になることなく、物語の血肉として織り込んでいる。東ドイツの孤児院。チェコのプラハ。ミュンヘンの裏路地。フランクフルトの赤線地帯。オーストリアの田舎町。物語が移動するすべての土地に、その土地固有の「記憶」が染み込んでいる。読者は、この漫画を読みながら、まるで実際に九〇年代のヨーロッパを旅しているかのような、重く、湿った、しかしどこか懐かしい空気感を肌で感じることになる。
これは、日本の漫画家が描いたヨーロッパである。しかし、驚くべきことに、この作品には「日本人が想像した異国」という薄っぺらさが微塵もない。建物の一軒一軒、路地の曲がり角、ビールホールの喧騒、教会の鐘の音、冬空の鉛色──そのすべてが、圧倒的な取材量と、それを消化しきった作家の想像力によって、息を吹き込まれている。
「怪物」を描かないことで、「怪物」を描く
この作品のタイトルは『MONSTER』である。しかし、ここで一つ、重要なことを言っておきたい。
この作品に、いわゆる「怪物」は登場しない。
超能力者も、異形の存在も、超自然的な恐怖も、ここにはない。登場するのは、すべて、二つの目と一つの口を持った、あなたや私と同じ「人間」である。スーツを着た男。エプロンをした女。公園で鳩に餌をやる老人。学校でいじめられている少年。深夜のバーで一人飲む刑事。
そして、その「どこにでもいる人間」たちが、ページをめくるたびに、あなたの背筋を凍らせる。
なぜか。
それは、浦沢直樹が「恐怖」の本質を完全に理解しているからである。本当の恐怖とは、未知の怪物が闇から飛び出してくることではない。本当の恐怖とは、隣に座っている人間が、微笑みながら、あなたの存在を「無意味」だと告げることである。本当の恐怖とは、善意で行った行為が、取り返しのつかない連鎖の起点であったと知ることである。本当の恐怖とは、「悪」というものが、角も牙も持たず、むしろ誰よりも優しく、誰よりも知的で、誰よりも魅力的な顔をして、あなたの前に現れることである。
『MONSTER』の恐怖は、静かである。叫び声ではなく、囁き声でやってくる。爆発ではなく、沈黙でやってくる。そしてその静けさこそが、読者の神経を、じわじわと、しかし確実に、削り取っていく。
「選択」の物語
この作品の核心にあるのは、一つの「選択」である。
しかし、その選択の内容をここで語ることはしない。ただ、これだけは言っておきたい。その選択は、物語の冒頭でなされる。そして残りの十七巻と数百ページは、すべて、その「一つの選択」が引き起こした波紋の記録である。
一つの選択。それは、ある意味では、誰にでも起こりうる選択である。極限状況で、限られた時間の中で、二つのもののうち一つを選ばなければならない。もう一つは、永遠に失われる。そのとき、あなたは何を基準に選ぶのか。命に、順位をつけられるのか。つけるべきなのか。つけたとして、その結果を、あなたは一生背負って生きられるのか。
この問いは、物語の中で一度だけ問われるのではない。形を変え、登場人物を変え、状況を変え、何度も何度も、執拗に、読者に突きつけられる。そして恐ろしいことに、読み進めるうちに、あなたは気づく。自分の中で「当然こうするだろう」と思っていた答えが、少しずつ、しかし確実に、揺らいでいることに。
浦沢直樹は、読者に「正解」を与えない。この作品には、勧善懲悪のカタルシスがない。悪が滅び、善が報われる、という単純な図式は、ここには存在しない。存在するのは、選択し、苦しみ、それでも歩き続ける人間たちの、不器用で、痛々しい、しかし美しい足跡だけである。
「脇役」が、いない
漫画、あるいは物語一般において、「主人公」と「それ以外」という構図は、ある意味で不可避である。しかし、『MONSTER』を読むと、その構図が、いかに安易なものであるかを思い知らされる。
この作品には、数十人──いや、百人以上の、名前を持った登場人物が登場する。刑事、医者、弁護士、ジャーナリスト、孤児、娼婦、元秘密警察、大学教授、絵本作家、消防士、双子の子ども、トルコ系移民、ネオナチの青年、田舎の老夫婦。その一人ひとりに、固有の人生がある。固有の痛みがある。固有の言葉がある。
浦沢直樹は、たった数ページしか登場しない人物にすら、完全な「人生」を与えている。ある老人が、バーで隣に座った主人公に、自分の亡くなった妻について語る。その語りは、三ページで終わる。しかしその三ページを読んだあと、あなたは、その老人の四十年間の結婚生活の重みを、確かに感じている。その老人が、翌朝、パンにバターを塗る手つきまで、想像できてしまう。
これは、技術の問題ではない。これは、人間に対する「敬意」の問題である。浦沢直樹は、すべての人間を「物語の道具」として扱うことを拒否している。この作品に登場するすべての人間は、主人公の物語を前進させるための「機能」ではなく、それ自体が一つの宇宙である「存在」として、そこに立っている。
だからこそ、この作品の「悪」は、これほどまでに恐ろしい。なぜなら、その悪が奪うものが、単なる「記号」ではなく、あなたが三ページかけて愛してしまった「一人の人間」だからである。
線の「静寂」
浦沢直樹の画について、語らずにはいられない。
この作家の線は、驚くほど「静か」である。派手な効果線もない。過剰なデフォルメもない。スクリーントーンの洪水もない。あるのは、緻密に、しかし決して窮屈になることなく引かれた、人物の顔、手の皺、建物の壁、空の雲、それだけである。
しかし、その「静かさ」の中に、途方もない情報量が圧縮されている。
ある人物が微笑む。その微笑みの、口角の上がり方が、目の奥の光の消え方が、頬の筋肉の微妙な緊張が、その人物が「今、何を考えているか」を、言葉なしに語っている。ある人物が嘘をつく。その嘘を、読者は、コマの構図と、視線の方向と、指先の震えだけで、見抜いてしまう。
特に、この作品における「目」の描写は、特筆に値する。浦沢直樹が描く人間の目は、ときに、言葉よりも雄弁に、その人物の「正体」を暴く。ある人物の目が、一コマの中で、ほんの少しだけ変わる。その「ほんの少し」が、読者の心臓を鷲掴みにする。ページをめくる手が止まる。息を呑む。そして、次のコマで、その「ほんの少し」の意味が、氷のように冷たい理解となって、あなたの脳裏に降りてくる。
また、この作品の「間」の使い方についても触れておきたい。浦沢直樹は、沈黙を描く天才である。会話のないコマ。ただ、風が吹いているだけのコマ。ただ、誰かが廊下を歩いているだけのコマ。ただ、時計の針が動いているだけのコマ。その「何もない」コマが、次のコマの「何か」を、百倍にも千倍にも増幅する。映画で言えば、長回しの固定カメラ。音楽で言えば、休符。この「引き算」の美学が、『MONSTER』のサスペンスを、他のどの作品とも異なる次元に引き上げている。
「正義」を疑う勇気
この作品の主人公は、ある意味で、非常に「正しい」人間である。しかし、浦沢直樹は、その「正しさ」を、一度も無条件に肯定しない。
「正しいことをする」とは、どういうことか。その「正しさ」は、誰が定義するのか。一人を救うために、十人を見殺しにすることは「正しい」のか。逆に、十人を救うために、一人を犠牲にすることは「正しい」のか。その「一人」が、あなたの愛する人であったら、あなたはまだ同じ答えを出せるのか。
この作品は、読者に「正義の味方」になることを許さない。読み進めるうちに、あなたは、自分が「正しい」と信じていたことが、実はただの「都合のいい解釈」であったかもしれない、という疑念に苛まれる。そして、その疑念から目を逸らしたくなったとき、物語は、さらに深く、さらに容赦なく、あなたの足元を掘り崩してくる。
しかし──ここが重要なのだが──この作品は、決してニヒリズムに堕ちない。世界は残酷である。人間は弱い。善意は裏切られる。正義は報われない。そのすべてを、この作品は、目を逸らすことなく描く。しかし、その絶望の底に、なお、かすかな、しかし消えることのない「光」がある。それは、大仰な希望ではない。奇跡でもない。ただ、ある人間が、ある夜、別の人間のために、一杯のコーヒーを淹れる。それだけの行為。しかし、その一杯のコーヒーが、この物語においては、世界のすべての暴力よりも重い意味を持つ。
「読む」という行為そのものが、試される
最後に、この作品の「読み方」について、一つだけ言っておきたい。
『MONSTER』は、一気読みできる作品である。そして、おそらく、多くの読者は、一度手に取ったら、止めることができなくなる。午前二時、午前四時、窓の外が白み始めるころ、あなたは十八巻目の最後のページをめくっている。目は充血し、肩は凝り、膀胱は限界を訴えている。しかし、手を止めることができない。
しかし、同時に、この作品は、一気読み「すべきではない」作品でもある。
なぜなら、この作品の本当の恐ろしさは、読み終えた「あと」にやってくるからである。最後のページを閉じたあと、あなたは、しばらくの間、現実世界に戻ってこられない。街を歩いていて、すれ違う人々の顔を見て、ふと思う。「この人は、何を抱えて生きているのだろう」。電車の中で向かいに座っている老人の目を見て、ふと思う。「この人の過去に、何があったのだろう」。
『MONSTER』は、あなたの「他者を見る目」を、不可逆的に変えてしまう作品である。読み終える前の自分には、もう戻れない。それは、少しだけ、怖いことである。しかし、それ以上に、それは、豊かになることである。
あなたに、この十八巻を渡したい
もし、あなたがまだこの作品を読んでいないのなら、あなたは、人生において、まだ経験していない「読書体験」を、一つ、持っている。それは、羨ましいことである。初めて『MONSTER』の第一巻を開き、最初の数ページで「これは、ただの漫画ではない」と気づく、あの瞬間。まだ何も知らぬまま、物語の渦に引きずり込まれていく、あの無防備な感覚。それは、二度と味わえない。
だから、私は、この作品を、あなたに「勧める」というよりも、あなたに「渡したい」と思う。
十八巻。重い。場所を取る。読むのに時間がかかる。しかし、読み終えたとき、あなたの本棚の、その十八巻が占めているスペースは、他のどの百冊よりも、重く、意味のある空間になっているはずである。
今夜、第一巻を開いてほしい。
そして、覚悟してほしい。
この物語は、あなたを、優しいままには、帰してくれない。
浦沢直樹『MONSTER』全18巻(小学館ビッグコミックス)