末次由紀『ちはやふる』――あなたの「一生モノ」が、ここにある
一枚の札が、世界を変える
本屋の棚の前で、あるいは図書館の返却台の上で、ふと手に取った一冊が、その後の人生の景色をまるごと変えてしまうことがある。読み終えたあとに駅のホームで立ち尽くし、電車を見送り、ただぼんやりと空を仰いでしまう。そういう本が、この世には確かに存在する。末次由紀『ちはやふる』は、まさにそういう一冊――いや、全五十巻である。
ただし、先にひとつだけ断っておきたい。この作品を「競技かるたの漫画です」と紹介した瞬間、あなたはきっと損をする。「へえ、かるたね」と、どこか他人事のように棚に戻してしまうかもしれない。それだけは、どうか避けてほしい。この作品が描いているのは、かるたではない。あるいは、かるた"だけ"ではない。これは、人が何かに命を懸けるということの、途方もない美しさと残酷さを、五百七十枚の札の上に凝縮した、壮大な人間ドラマである。
「好き」の正体を、これほど丁寧に描いた作品があるだろうか
私たちは大人になる過程で、いくつもの「好き」を置き去りにしてきた。幼い日に夢中になったもの、胸が締めつけられるほど憧れたもの、それらを「現実的じゃない」「もうそういう歳じゃない」という言葉で静かに殺してきた。この作品の恐ろしさは、その埋葬された感情を、容赦なく掘り起こしてくるところにある。
ページをめくるたびに、あなたは思い出す。何かに夢中だった頃の自分の体温を。寝る間も惜しんで何かに打ち込み、翌朝の授業中に机に突っ伏しながらも、心の奥ではまだそのことでいっぱいだった、あの贅沢な時間を。作者は、その感覚を一切美化しない。むしろ、夢中であることの滑稽さ、みっともなさ、周囲からの不理解、そして何より「自分には才能がないのではないか」という、あの夜中の三時にやってくる静かな絶望を、真正面から描き切る。だからこそ、登場人物たちが札に手を伸ばす一瞬一瞬が、読み手の胸の奥で、自分の記憶と共鳴する。
百人一首という、千年の時を超えた装置
この作品のもうひとつの驚異は、小倉百人一首を単なる「ゲームの素材」として消費していない点にある。千年前に詠まれた和歌が、現代を生きる十代の少年少女の心情と、これほど自然に、これほど切実に重なり合うのかと、あなたは幾度となく息を呑むことになる。
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」
この歌を、あなたは学校の授業で暗記させられただけかもしれない。意味を訳し、文法を分解し、テストの点数に変換して、忘れてしまったかもしれない。しかしこの作品を読み進めるうちに、ある場面で、ある人物の横顔とともに、この歌がふいに立ち上がってくる。そのとき、あなたは初めて、この歌を「知る」のではなく「感じる」ことになる。千年前の歌人が込めた想いが、紙の向こうから、まっすぐにあなたの胸に届く。これは、国語の授業では決して到達できない体験である。
作者は、百人一首の一首一首を、登場人物たちの人生の節々に、まるで運命のように配置している。それは偶然ではなく、この作品の構造そのものが、和歌の「本歌取り」のように、過去と現在を織り合わせているからだ。読み進めるほどに、あなたの中で百人一首が「暗記すべき百首」から「生きている百の物語」へと変質していく。この副次的な体験だけでも、この作品を読む価値はあると、私は本気で思う。
登場人物というより、「隣人」
五十巻という長大な物語を支えるのは、言うまでもなく人物造形の深さである。しかし「深い」という言葉では、まだ足りない。この作品の登場人物たちは、深いというより、"厚い"。一人ひとりに、ページに描かれていない時間の厚みがある。
主人公の周囲にいる人々は、誰一人として「主人公を輝かせるための装置」にならない。ライバルにはライバルの、友人には友人の、師には師の、それぞれの「一生モノ」がある。そしてその「一生モノ」は、主人公のそれとは異なる形をしていて、異なる痛みを伴っていて、異なる孤独を抱えている。作者は、主要人物だけでなく、わずか数ページしか登場しない人物にさえ、その人だけの人生の重力を与えている。だから、読み手は誰かを「推す」ことができる。いや、推さずにはいられない。五十巻を読み終える頃には、あなたはきっと、自分だけの「この人の物語をもっと読みたい」という人物を持っているはずだ。
そして何より、この作品の人間関係は、単純な善悪や勝敗で割り切れない。勝った者が正しく、負けた者が間違っている、という構造がどこにもない。勝者の喜びの裏にある喪失、敗者の涙の奥にある静かな誇り。それらが、同じコマの中で、同じ呼吸の中で描かれる。だから、この作品には「嫌いなキャラクター」が生まれにくい。むしろ、最初は苦手だった人物が、ある巻のある数ページで、突然、かけがえのない存在になる。そういう体験が、何度も、何度も訪れる。
「競技」を描くことの、本当の難しさ
スポーツ漫画、競技漫画というジャンルには、長年の課題がある。それは「ルールを知らない読者をどう巻き込むか」という問題であり、同時に「知っている読者をどう飽きさせないか」という問題でもある。この作品は、その両方を、驚くべき方法で解決している。
競技かるたのルールは、実はシンプルだ。しかし、そのシンプルさの奥にある、コンマ一秒の反応、札の配置の戦略、呼吸の読み合い、体力の限界、そして何より「相手の心を読む」という心理戦の深淵を、作者は、静止画である漫画の表現の中で、これ以上ないほど立体的に描き出している。札を払う手の動き、畳を擦る音、会場の空気、観客の息遣い。それらが、コマ割りの中に、まるで映像のように、あるいは音楽のように流れ込んでくる。
そして、この作品が本当にすごいのは、試合の勝敗そのものよりも、試合に至るまでの「時間」にこそ、最大のドラマを置いているところだ。何百時間もの練習、何度も繰り返される挫折、仲間との衝突、自分自身との対話。それらの蓄積があるからこそ、一枚の札が払われた瞬間に、読み手は涙を流す。それは、勝ったから嬉しい、負けたから悔しい、という単純な感情ではない。その一枚に込められた時間の重さが、あなたの涙腺を、抗いようもなく決壊させるのである。
絵という、もうひとつの物語
末次由紀の画力について語らずに、この作品を語ることはできない。しかし、ここで言う「画力」は、単に「絵が上手い」という意味ではない。
この作品の絵は、"語る"。登場人物の目の光の入り方、指先の角度、髪の流れ、着物の皺。それらすべてが、台詞では語られない感情を、静かに、しかし確実に伝えている。特に、試合中の集中の描写、いわゆる「ゾーン」に入った瞬間の画面の静寂は、息を止めて見入ってしまうほどの力がある。逆に、日常の何気ない場面での、ふとした表情の柔らかさ。この緩急が、五十巻という長丁場の中で、読み手の感情を絶えず揺さぶり続ける。
また、和服の描写、畳の目の一本一本、札の文字のかすれ具合に至るまで、画面の隅々にまで行き届いた描写は、この作品の世界に「触れられる」ような質感を与えている。あなたは、読みながら、畳の匂いを感じ、札を払ったときの乾いた音を聞き、指先に残る紙の手触りを想像する。五感に訴える漫画、という表現がこれほどふさわしい作品は、そう多くない。
五十巻という「時間」を、あなたに贈りたい
近年、漫画は「タイパ」で語られがちだ。何巻で完結するか、アニメは何クールか、映画は何時間か。効率的に消費できるかどうかが、作品を選ぶ基準になりつつある。
しかし、この作品の五十巻という長さは、欠点ではなく、この作品の本質そのものである。登場人物たちとともに、あなたもまた、時間を過ごす。彼らが一年生から二年生になり、三年生になり、卒業し、その先へと歩いていく時間を、あなたもまた、ページをめくる指先で共に生きる。五十巻を読み終えたとき、あなたは彼らと「別れる」ことになる。その別れの寂しさは、長い時間を共にした者にしか味わえない、特別なものだ。
だから、この作品は「一気読み」よりも、むしろ、日々の生活の中に少しずつ溶かして読んでほしい。通勤電車の中で、寝る前の三十分で、休日の午後の、お茶を淹れてから冷めるまでの時間で。そうやって、あなたの日常の時間と、彼らの時間が、ゆっくりと重なっていく。その重なりこそが、この作品の本当の読み方だと、私は思う。
この作品が、あなたに問いかけるもの
『ちはやふる』を読み終えたあと、あなたはきっと、自分自身に問いかけることになる。
「自分の"一生モノ"は、何だろう」と。
それは、かるたである必要はない。音楽でも、料理でも、仕事でも、誰かとの関係でも、何でもいい。しかし、この作品は、あなたに「何かに本気であること」の尊さを、説教ではなく、物語の力で、静かに、しかし深く刻み込んでくる。
そして、もうひとつ。この作品は、「才能」という言葉の残酷さと、それでもなお手を伸ばすことの意味を、繰り返し問い続ける。才能がある者とない者。恵まれた者とそうでない者。その差は、確かにある。この作品は、その差を「努力で乗り越えられる」という安易な物語にしない。しかし同時に、才能の有無では測れないものが、確かにこの世界にあることを、五十巻をかけて証明してみせる。その証明の仕方が、あまりに丁寧で、あまりに優しくて、あまりに厳しい。だから、読み終えたあと、あなたは少しだけ、自分の人生を肯定できる。自分の「好き」を、もう一度、信じてみようと思える。
最後に、編集者としての、個人的な告白
私は仕事柄、年間数百冊の漫画に目を通す。その中で、本当に「これは」と思う作品は、年に数冊あるかないかだ。そして、その数冊の中でも、他人に「読んでくれ」と、ほとんど懇願するように勧める作品は、さらに少ない。
『ちはやふる』は、その数少ない一冊である。
私は、この作品を勧めるたびに、相手の反応を少し心配する。「かるたの漫画でしょ?」と言われるのではないか、と。しかし、読み終えた人から返ってくる言葉は、決まって同じだ。「もっと早く読みたかった」「泣いた」「自分の"好き"を思い出した」「誰かに会いたくなった」。
この作品は、あなたの中の、ずっと閉じたままでいた引き出しを、そっと開けてくれる。その引き出しの中には、あなたが忘れていた、あるいは見ないふりをしていた、何かが入っている。それが何であるかは、人によって違う。しかし、この作品は、それをあなた自身に見つけてくれる。
さあ、第一巻を手に取ってほしい。最初の数ページで、あなたはもう、戻れなくなっている。
末次由紀『ちはやふる』全50巻(講談社「BE・LOVEコミックス」)。2007年より連載開始、2022年完結。第2回マンガ大賞受賞、第35回講談社漫画賞少女部門受賞。アニメ三期、実写映画三部作、および続編映画も製作された。しかし、この作品の本当の力は、あなたの指先がページをめくる、その静かな時間の中にこそある。