命の値段を、あなたは決めることができるか。
一冊の漫画を前にして、これほどまでに「読む」という行為が「問いかけられる」体験があるだろうか。
ページをめくる。そこに立っているのは、白と黒のまだら模様の髪を持つ、一人の男。顔には縫い跡が走り、黒いマントを翻し、メスを握るその手は神の域に達している。名を、ブラック・ジャック。医師免許を持たない。所属する病院もない。学会から追放され、医療界の正規のルートからは完全に外れた存在。それでも、世界中のどんな名医も匙を投げた患者が、最後の望みを託して彼の元を訪れる。そして彼は、法外な報酬を要求する。三千万。五千万。時には一億。提示された金額を前に、患者の家族は絶句し、怒り、泣き、そしてそれでも頭を下げる。命とは、そういうものだから。
この導入だけを聞けば、あなたは思うかもしれない。「ああ、天才医師の活躍する医療漫画か」と。だが、それはこの作品の入口の、さらに手前にある看板に過ぎない。扉を開けた瞬間に広がる世界は、そんな一言では到底収まらない。収まるはずがない。なぜならこの作品は、漫画という形式を借りた、人間という存在への果てしない問いの連続だからだ。
手塚治虫という名前を、知らない日本人はいないだろう。『鉄腕アトム』『火の鳥』『リボンの騎士』。漫画の神様。そう呼ばれて半世紀以上が経つ。だが、あえて言いたい。手塚治虫という作家の、最も「手塚治虫らしい」作品は何かと問われたとき、私は迷わずこの『ブラック・ジャック』の名を挙げる。
一九七三年から一九八三年にかけて、『週刊少年チャンピオン』に連載されたこの作品は、手塚が医師免許を持つ者として、そして何より「命を描き続けた物語の作家」として、そのすべてを注ぎ込んだ集大成である。大阪大学医学部を卒業し、実際にメスを握った経験を持つ男が、漫画という虚構のなかで、もう一度「命」と向き合った。その重みは、コマの隅々にまで染み渡っている。
しかし、ここで誤解してほしくない。これは「お医者さんの偉い話」ではない。感動ポルノでもない。読んで泣いて、はい終わり、という消費のための物語でもない。むしろ逆だ。この作品は、あなたを泣かせた直後に、その涙の意味を問い返してくる。「お前は今、何に泣いたのか」「その涙は、本当に正しいのか」と。
ブラック・ジャックという人物の、なんと魅力的で、なんと厄介なことか。
彼は冷徹である。金に執着する。患者を前にして平然と金額を提示し、払えなければ帰れと言う。感情を見せない。愛想を振りまかない。社会のルールを軽視し、権威を嘲笑し、孤立を厭わない。一見すれば、これは「悪役」の造形である。
だが、物語が進むにつれて、あなたはその「冷徹さ」の裏側に、底の見えない深淵があることに気づく。なぜ彼は免許を取らないのか。なぜ彼は法外な金を要求するのか。なぜ彼は、時に無報酬で、時に自分の命を賭けてまで、見知らぬ誰かを救うのか。その矛盾のなかに、この男のすべてがある。そしてそのすべては、一度に語られない。二百数十話にわたる長大な連載のなかで、少しずつ、断片的に、まるで外科医が患部を切り開くように、彼の過去が、彼の傷が、彼の沈黙の理由が、明かされていく。
彼の隣には、ピノコがいる。この存在についても、多くは語らないでおこう。ただ一つだけ言えるのは、ブラック・ジャックという極限まで研ぎ澄まされた刃物のような男の傍らに、これほど不釣り合いで、これほど愛おしい存在が配置されていることの意味を、あなたは読み進めるうちに必ず理解する、ということだ。その理解が訪れたとき、あなたはもう、この作品から離れられなくなっている。
この作品の構造について、触れておきたい。
『ブラック・ジャック』は、基本的に一話完結の短編連作である。一つひとつのエピソードが、独立した物語として成立している。だから、どこから読んでもいい。第一話から順に読まなければならない、という縛りはない。だが、それでありながら、全体として一つの巨大な「人間観」を構築している。この離れ業を、手塚以外に成し遂げた作家を、私は知らない。
ある話では、戦争の傷跡を体に残した老人が登場する。ある話では、生まれながらにして差別される運命を背負った子どもがいる。ある話では、科学の進歩がもたらした倫理の崩壊が描かれる。ある話では、愛するがゆえに相手を殺そうとする者がいる。ある話では、死にたいと願う者を、それでも生かそうとする医者の苦悩がある。環境破壊、医療制度の矛盾、貧富の格差、遺伝子操作、安楽死、臓器移植、戦争、差別、孤独、老い。一九七〇年代から八〇年代にかけて描かれたこれらのテーマが、半世紀近く経った今、少しも古びていないという事実に、あなたは戦慄するだろう。むしろ、より鋭くなっている。手塚が見ていた未来は、今、ここにある。
そして、すべての話に共通して流れている問いがある。「命に、値段をつけられるのか」という問いだ。ブラック・ジャックは三千万を要求する。それは命の値段か。違う。では何の値段か。その答えは、話ごとに異なる。そして、読み終えたあとにあなた自身が下す判断も、話ごとに異なる。そこに、この作品の恐ろしさがある。正解がない。手塚は答えを与えない。ただ、問いを、メスのように正確に、あなたの胸の奥に突き刺して去っていく。
漫画表現としての『ブラック・ジャック』についても、語らずにはいられない。
手塚治虫の絵は、記号的だ。丸い目、単純化された輪郭。いわゆる「劇画」の写実的なタッチとは対極にある。だが、この作品において、その記号性はむしろ武器になっている。ブラック・ジャックがメスを振るう瞬間、コマのなかに走る線の速度。患者の体が開かれ、内臓が描かれるときの、冷徹なまでの正確さ。そして、クライマックスで人物の表情が崩れる一瞬の、あの「間」。手塚は、漫画の「時間」を支配する天才だった。ページをめくる速度、コマの大きさ、余白の取り方。そのすべてが計算されている。手術室の緊張感が、紙面から立ち上ってくる。メスの音が聞こえる。心電図の音がする。汗の匂いがする。漫画という、本来無音であるはずのメディアが、五感に訴えかけてくる。
特に、手術のシーンを見てほしい。手塚は医学的正確さを担保しながら、それを「絵」としての美しさに昇華させている。開かれた胸腔の描写が、なぜか美しい。血の色が、なぜか透明だ。それは、手塚が「命」を、単なる生物学的現象としてではなく、もっと根源的な、畏敬の対象として描いているからだ。この人の描く身体には、魂が宿っている。
もう一つ、この作品を読むうえで知っておいてほしいことがある。
手塚治虫は、この作品を描いている間、ずっと「怒って」いた。医療制度への怒り。命を軽んじる社会への怒り。権威に胡坐をかく者たちへの怒り。そして何より、漫画家として、表現者として、「この世界の不条理を、どうすれば伝えられるのか」という、自分自身への怒り。その怒りが、ブラック・ジャックという人物に仮託されている。だからこの男は、優しいだけではいられない。怒っている。常に、どこかで怒っている。その怒りが、法外な報酬という形を取り、孤絶という形を取り、時に暴力という形を取る。だが、その怒りの根底にあるのは、どうしようもないほどの「生への肯定」だ。怒れるのは、愛しているからだ。この世界を、人間を、命を、まだ諦めていないからだ。
その諦めのなさが、二百数十話のすべてに貫かれている。どんなに暗い話でも、どんなに救いのない結末でも、手塚の視線は、常に「それでも」という方向を向いている。それが説教臭くない。押しつけがましくない。ただ、物語の構造そのものに、その視線が組み込まれている。だからあなたは、読み終えたあとに、理由のわからない希望のようなものを感じている。泣いたあとに、なぜか背筋が伸びている。それが、手塚治虫という作家の、底知れない優しさだ。
最後に、一つだけ、個人的なことを書かせてほしい。
この作品を、私は十代の頃に初めて読んだ。そして三十代で読み返し、四十代でまた読み返した。読むたびに、違う話が胸に刺さる。十代の頃は、ブラック・ジャックの「カッコよさ」に痺れていた。二十代では、ピノコの無条件の愛に泣いた。三十代では、救えなかった患者のエピソードが、夜中に思い出して眠れなくなるほど重くなった。四十代では、ブラック・ジャックの「孤独」が、他人事ではなくなった。
これは、読む者の年齢と経験によって、全く違う顔を見せる作品だ。二十話で泣いた人間が、十年後に同じ二十話を読んで、今度は別の箇所で泣く。そういう作品は、そう多くない。『ブラック・ジャック』は、あなたの人生とともに成長する。あなたが歳を取るたびに、この作品も歳を取る。いや、正確には、この作品のなかに、あなたの次の十年が、もうすでに書き込まれている。まだ読んでいないあなたが、十年後に読むべき一話が、今、この瞬間にも、本棚のなかで待っている。
だから、読んでほしい。
全巻を、とは言わない。まずは一冊、手に取ってほしい。どの巻でもいい。書店で、背表紙のなかから一冊を引き抜いて、ぱらぱらとめくって、どこかのコマで目が止まったら、それがあなたの『ブラック・ジャック』の入口だ。手塚治虫が、あなたのために用意してくれた入口だ。
メスを握る男が、こちらを見ている。
「で、いくら出す?」
その問いに、あなたは、ページをめくることで答えることができる。
手塚治虫『ブラック・ジャック』。秋田書店。全二十五巻。一九七三年〜一九八三年連載。