『フルーツバスケット』――あなたが「帰る場所」を失ったとき、この本が待っている
ひとつの問いから始めよう
あなたは、最後に「ただいま」と言ったとき、それを心から言えただろうか。
玄関のドアを開けた瞬間、靴を脱ぐ前に、誰かの「おかえり」が聞こえる。その声が、その温度が、今日一日のすべてを許してくれる。そういう場所を、あなたは持っているだろうか。もし持っていたとして、それが永遠にそこにあると、本当に信じられているだろうか。
高屋奈月の『フルーツバスケット』は、その問いを、二十三年かけて世界中の読者に投げ続けてきた作品である。そして恐ろしいことに、この作品はその問いに安易な答えを与えない。ただ、問いの隣にそっと座り、あなたの肩に手を置き、一緒に泣いてくれる。それだけのことしかしない。しかし、その「それだけ」が、どれほど人の心を救うか。この漫画を読んだ人間なら、誰もが知っている。
「優しい」という言葉の、本当の意味
この作品を語る際、誰もが「優しい漫画だ」と言う。それは間違っていない。しかし、その「優しさ」を、柔らかい毛布のような、何も傷つかない安全な優しさだと想像してはいけない。
高屋奈月の優しさは、もっと暴力的だ。
この作品は、あなたの心の奥にしまいこんで、もう二度と触れないと決めた記憶を、容赦なく掘り起こす。親に愛されなかった記憶。誰かに必要とされなかった夜。自分の存在が、誰かにとっての「重荷」なのではないかと怯えた瞬間。笑ってごまかしてきた孤独。大丈夫だと自分に言い聞かせてきた嘘。そのすべてを、この漫画は知っている。知ったうえで、あなたの目をまっすぐに見て、こう言うのだ。
「それでも、あなたはここにいていい」
この一言の重さを、この作品は二十三巻かけて、何百ページもの沈黙と涙と、震える手と、途切れ途切れの言葉で、あなたに証明しようとする。だから読者は泣く。ストーリーが悲しいからではない。自分の痛みを、誰かがこんなに丁寧に、こんなに真剣に、言葉にしてくれたことが、ただ嬉しいから泣くのだ。
呪い、という名の比喩
設定だけを聞けば、この作品はファンタジーだ。ある一家にかけられた「呪い」。異性に抱きしめられると、十二支の動物に変身してしまう体質。それは確かに非日常的で、少し滑稽で、コミカルな場面も生む。
しかし、読み進めるうちに気づく。この「呪い」は、比喩だ。
私たちは皆、何かしらの「呪い」を抱えて生きている。親から受け継いだ価値観。幼い頃に刻まれた「お前はダメだ」という声。愛されるためには何かを犠牲にしなければならないという思い込み。誰かに近づけば傷つける、だから距離を保てという防衛本能。笑っていれば誰も深入りしてこないという処世術。
この作品の登場人物たちは、全員が何らかの「呪い」に縛られている。そしてその呪いは、外からかけられたものであると同時に、自分自身が「これでいい」と受け入れてしまったものでもある。その二重性――加害者と被害者が同じ人間の中に同居しているという残酷な真実――を、高屋奈月は一切の単純化を拒んで描く。
「悪い人」は、ほとんど出てこない。出てくるのは、傷ついた人たちが、傷ついたまま、別の誰かを傷つけてしまう連鎖だけだ。そしてその連鎖を断ち切ることが、どれほど恐ろしく、どれほど勇気のいることか。この作品は、その恐怖を一切ごまかさない。
主人公という「奇跡」について
この物語の中心にいる少女について、少しだけ話そう。彼女は両親を亡くし、一人でテント暮らしをしている。普通なら、ここで読者は同情する。しかし高屋奈月は、その同情を裏切る。この少女は、同情されることを望まない。哀れまれることを望まない。彼女は、自分の不幸を武器にしない。
では彼女は「強い」のか。それも違う。彼女は弱い。怖がりだし、泣くし、自分が何の価値もない人間だと本気で思っている瞬間がある。しかし彼女は、その弱さのまま、他人の前に立つ。自分の傷を隠さず、しかしそれを他人の責任にせず、ただ「私はここにいる」と言う。
この在り方が、どれほど革命的か。少年漫画の主人公のように敵を倒すのでもない。少女漫画の主人公のように誰かに救われるのでもない。彼女はただ、そこにいる。笑って、おにぎりを握って、人の話を聞いて、泣いて、また笑う。それだけで、周囲の人間が、長年凍りついていた心を、少しずつ溶かし始める。
これは「優しさで世界を救う」などという安っぽい話ではない。これは、一人の人間の「在り方」が、別の人間の「呪い」を揺るがす、という、極めて静かで、極めて暴力的な物語だ。
高屋奈月という作家の「手」
この作品を語るうえで、高屋奈月の画力について触れないわけにはいかない。しかし「画力」という言葉では足りない。彼女の線は、技術の問題ではない。
彼女の描く目は、常に何かを「堪えている」。泣く直前の目。笑っているのに笑っていない目。怒っているのに怒る資格がないと思っている目。その微妙な揺らぎを、彼女は一本の線で表現する。コマの余白の取り方、吹き出しの中の文字の震え、指先の角度、俯いたときの髪の流れ。そのすべてが、言葉にならない感情を語っている。
特に、沈黙のコマ。この作品には、台詞のないページが驚くほど多い。誰かが誰かの手を握っている。それだけ。しかしその三コマ、四コマの沈黙の中に、何万字もの台詞では表現できない感情が詰まっている。ページをめくる手が止まる。息を止めている自分に気づく。そういう体験を、この漫画は何度も、何度も与えてくれる。
二十三巻という「時間」の重み
この作品は、一九九八年から二〇〇六年にかけて、『花とゆめ』に連載された。単行本二十三巻。アニメ化は二度。一度目は二〇〇一年、二度目は二〇一九年から二〇二一年にかけて、原作を完全に映像化する形で制作された。
しかし、この作品の本当の「長さ」は、巻数では測れない。
読み始める。最初の数巻は、コミカルで、温かくて、少し不思議な日常譚だと思う。十二支の動物たちが次々と登場し、ドタバタがあり、笑える場面がある。安心して読む。
そして、ある時点で、足元が崩れる。
いつの間にか、笑えなくなっている。いつの間にか、ページをめくるたびに胸が締めつけられている。いつの間にか、登場人物の一人ひとりが、あなたにとって「他人」ではなくなっている。彼らが傷つくと、あなたが傷つく。彼らが笑うと、あなたが救われる。
この「いつの間にか」の設計が、高屋奈月の天才的な部分だ。彼女は、読者の防御壁を、少しずつ、少しずつ削っていく。最初は「面白い漫画だな」と思っている。次は「いい話だな」と思う。その次は「この人物が心配だ」と思う。そして気づいたときには、あなたはもう、この物語の中に住んでいる。逃げられない。逃げたくない。
二十三巻を読み終えたとき、あなたは確実に、読み始める前の自分とは違う人間になっている。それは大げさな表現ではない。この作品を読んだ人間が、口を揃えて言うことだ。「人生が変わった」とまでは言わない。しかし、「ものの見方が変わった」「誰かに対する接し方が変わった」「自分の過去を、少しだけ許せるようになった」。そういう声が、この作品には無数に寄せられ続けている。
「家族」という言葉の再定義
この作品が扱っているのは、血縁の話ではない。
もちろん、血のつながった家族は登場する。しかしこの作品が本当に描いているのは、「家族とは何か」という問いの、もう一つの答えだ。血がつながっていなくても、同じ姓を名乗っていなくても、ただ「あなたのことを考えている」という事実だけで、人は人の「帰る場所」になれる。
逆に、血がつながっていても、同じ屋根の下にいても、そこに愛がなければ、それは「家族」ではない。それは「呪い」の継承でしかない。
この作品は、その両方を、一切の妥協なく描く。美しい家族も描く。地獄のような家族も描く。そして、地獄の中から這い出してきた人間が、もう一度「家族」を信じるまでの、途方もなく長い道のりを描く。その道のりは、一直線ではない。三歩進んで二歩下がる。信じた翌日にまた疑う。許したと思ったのに、夜中にまた怒りが湧く。その揺れを、高屋奈月は一切省略しない。
だから、この作品の「ハッピーエンド」は、安くない。安くあってたまるか、という作者の意地が、最終巻の最後のページまで貫かれている。
誰に読んでほしいか
この作品を「少女漫画」という枠で語ることは可能だが、それはあまりに狭い。
親との関係に、今も決着がついていない人に読んでほしい。自分の存在価値を、誰かの承認に委ねてしまっている人に読んでほしい。「大丈夫」という言葉が、もう呪文のように口癖になっている人に読んでほしい。誰かを愛したいのに、愛し方がわからない人に読んでほしい。愛された記憶がなくて、愛されることが怖い人に読んでほしい。
そして、何より、「もうこういう話に感動する歳ではない」と思っている人に読んでほしい。その防御壁を、この作品は、確実に、しかし優しく、崩してくるから。
最後に
この作品のタイトル、『フルーツバスケット』には、ある意味が込められている。それは、物語の中で明かされる。しかし、読み終えたあと、あなたはこのタイトルを、まったく別の意味で受け取ることになる。
果物は、一つだけでは「バスケット」にならない。さまざまな形、さまざまな色、さまざまな甘さと酸っぱさを持った果物が、同じ籠の中にあって、初めて「フルーツバスケット」になる。傷ついた果物も、まだ青い果物も、少し潰れた果物も、同じ籠の中にいていい。
この作品は、その「籠」そのものだ。
二十三巻。数千ページ。何十人もの登場人物。何年もの時間。そのすべてが、あなたのために用意された「帰る場所」だ。
テントの中で、一人で震えているあなたのために。
この本は、ずっと、ここで待っている。
高屋奈月『フルーツバスケット』全23巻(白泉社・花とゆめコミックス)
1998年〜2006年連載。第25回講談社漫画賞少女部門受賞。